カタチにする必要はない

激務の1ヶ月が終わった。僕はビジネスマンだが、季節労働者なので、海外拠点がクリスマス休暇に入る前のこの季節は毎年業務量、業務時間が増加する。やっと一旦落ち着いたので、頭の中を整理しあれこれ考える時間を設けた。

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僕は昔から焦って色々なことに手をつけようとする悪い癖がある。隣の受験生が持っている参考書を青芝に感じて、自分も購入し、帰ってすぐに手をつけるも続かないタイプだった。不安になると今取り組んでいることを否定し、別のことに目が移ってしまう。最近ではそういう悪い自分が出てきたタイミングで自身を落ち着かせるために「ポテンシャルの低い自分レベルがまぁまぁ上手くやってる」「いい感じで成長できているのではないか」とハードルを下げて肩の力を抜く機会をルーティーンとしてあえて設けている。

 

前のクエリにも書いたが、社会人になってから、貴重な自分の人生の時間を今担当する業務だけに費やすことで生き方として正しいのか疑問に思うようになった。最近の例で言うと、安宅さんがよく言う「残すに値する未来」を創るために、自分も何か世のために動くべきと考えるようになった。既存の業務に従事することよりも、新しい世の中の動きに自分の時間をベットしたいと思うようになった。また、僕はコメンテーター的な生き方をする人が嫌いなので、自分自身もプレーヤーとして生きることに拘っている(野球ではプレーヤーとして活躍できなかったので尚更その思いは強い)。なので、カタチにすることにトコトン拘っている。カタチにならないモノに意味はなく、打率低くとも打席に立ちバットを振ることにこそ意味があると考えている。

 

しかし、最近ではそういう考えで仕事にあたりすぎるあまり答え・成果を早く求めすぎる傾向にある。カタチにするにはもう少し長い期間、スキル、人からの協力、周囲の同意、市場動向の変化が必要なのだが、「何かやりたい」が先行して、予定調和なoutcomeになることが多い。自分の悪い癖が出ているのを改めて痛感した。

 

この僕の性格は良く言えばマグロで、動いてなければ死んでしまうネイチャーなのかもしれない。悪く言えば、必要のない変な正義感があり、周りを困らせてしまう面倒な人間なのだと思う(頷いてる人が数名いる気がする)。

 

カタチにする必要はない。

パズルを完成させるためには、まずはピースを揃える必要がある。月並みだが、来るべき時に備えて、まずはやるべきをことに集中する。焦る心を鎮めて、二十代で付けておくべきスキルセットの研鑽に励むとする。