言葉にしよう、自戒を込めて

f:id:koheisblog:20200915001214j:plain来る10月で勤続2年と半年を迎える。中身が濃すぎてまだ2.5年しか働いてないのかと少し面くらうのが正直なところだ。2.5年なのにこれまで生きてきた25年間の人生を軽く超えるくらい、人に注意を受け、怒られてきた。1年目は自分が何に怒られているかも分からず終わった。2年目になり怒られていることの中身が理解できるようになったが、まだ色々と指摘を受けた。3年目になってやっとこさ自分が何に怒られているのかグルーピングができるようになってきた(共通性が見えてきた)。ここに来て分かったのが「自分が言葉を正確に使えていないがために、概念を正しく捉え切れておらず、上司に自身の考えを正しく伝えられていない。また何に答えを出すべきか、切り口が甘く、言語化ができていないが故に常に意見・行動がフワッとしてる」という点だ。

 

僕が尊敬する上司から、よく指摘を受けたのが「石井がファシリテートしてるその会議の目的は相談なのか、報告なのか、ブレストなのか、これがよく分からない。オレらに何をして欲しいのかが分からない。」という指摘だ。一歩下がって考えればこの点を押さえるのは働く者のいろはとして支極当然なんだが、言うは易し、行うが難し。また、仮に「この会議は相談を目的に上司の時間をもらう!」と分かっていても、どのトピックを、なぜ相談したいのか、自分が何に迷っているのか。これをシャープに伝えることは本当に難しく、一つよくなっては一つダメになり、まさに鴨の水掻き状態だった。

 

言語化が正しく行えていないことで、熱量は伝わっているものの、僕の意見は常にフワッとしてて、何かが抜け落ち、納得性に欠けるものだった。仕切った打ち合わせが終わってみてもスッキリしない。担当したプロジェクトを最終的にどう位置付けてfile closeとしたのか、これが常に曖昧だった。まさにエネルギーがあるだけでやたらと周りを掻き乱してくる厄介者だったと思う。

 

さてそろそろ本題に入る。

今回自戒もこめて伝えたいのが、人は考えを言葉にすることで初めて概念を正しく捉え、人に伝えることができるという点だ。当たり前だが、言葉にできないことは考えていないのと一緒で、そこに価値は存在しない。ロジックツリーのような単純な筋書きの行間にある微細な思考を言葉にできない乃至は言語化する作業をしてない、だから考えが浅くなり、行動が中途半端になるのだ。

 

先日ふとTwitterを見ていた時、自分が過去にどんなツイートにいいねを押しているのか確認した。簡単にグルーピングしてみると大体30%くらいが「へぇーそうなんだ」という新しい知識を与えてくれるツイート、もう30%が「これは年を重ねても忘れちゃいけないな」と思ったツイート、残りの15%が「なんか良さそうだから今度見返そう」という種類のツイート、そして残りの15%が「今まで自分が同じような感覚をもっていたんだけど、言語化することが出来ないでいたモノや考えを巧みに表現してる」ツイートであることが分かった。

 

繰り返しになるが、人は言葉にすることで初めて概念を捉えることができ、物事の解像度を高めることができる。大学時代の恩師、林助監督は当時下級生の柳町(現 ソフトバンクホークス)だけが活躍した試合を終えて「柳町とその仲間たち」と表現した。「柳町以外は戦力になってない」と表現しないことにミソがある。童話やゲームのタイトルのような表現に例えることで、柳町以外は全くもって重要じゃないサブキャラクター、という皮肉がそこに込められている。

 

言葉にしよう。

今日はこんなところで、おやすみなさい。